大化の改新から読み解くマーケティングの情報戦とリスク管理
『大化の改新』を知らない方はいないと思います。
小学生ぐらいの時に覚えましたよね?
『蒸米(645め)炊いて祝おう大化の改新』
この語呂合わせからも分かるように、
何か良いことが行われたように感じますよね。
中大兄皇子と中臣鎌足が、
横暴な悪者である蘇我氏をやっつけたことになっております。
しかし、実際のところ、どうなんでしょう??
この後の日本の歴史を読み解くと、
この時の事件が後々、日本に重大な影響を及ぼしていることが分かります。
まず、そもそも、蘇我氏について、
意外と知られていない点として、外交力の高さがあります。
蘇我氏は仏教を日本に広めることを推進した人物なのですが、
その人脈により朝鮮半島、中国から様々な情報が入ってきておりました。
当時の朝鮮半島は
『百済(くだら)』『新羅(しらぎ)』『高句麗(こうくり)』の3国に分裂しており、
中国では、統一王朝として、唐王朝ができたばかりでした。
それまでの日本の外交はというと、端的に言えば『百済重視』、
しかし、
蘇我氏は各国との協調外交主義、
つまり『三国+唐王朝』の全てとバランスよく付き合おう
という思想でした。
蘇我氏が協調外交を主張した理由は、ずばり、リスク管理です。
どこか1カ国に依存していると、
もし戦争になった際、不利益を被る可能性がある。
ならば均等に仲良くしておくことで、不要に敵を増やさないようにしよう。
そして、情報も均等に各国から仕入れることで、
大陸の情報の精度を高めよう。
そういう思惑が有りました。
中臣鎌足からすると、
盟友国、百済とのこれまでの仲を捨てて、
その敵である新羅や高句麗と仲良くしようなんて面白くありません。
ということで、元に戻そうと、
専制を強める蘇我氏を討ち果たしました。
めでたしめでたし♪
・・・・となるかとおもいきや、この18年後に、重大な事件が起こります。
西暦660年、百済が新羅&唐(中国)連合軍に攻められ、滅亡します。
蘇我氏の死後、百済重視に戻っていた日本は、
百済を救済するため、数万の軍を派遣します。
西暦663年、『白村江の戦い』です。
結果・・大惨敗・・・
イメージが沸かないと思いますので、簡単に言いますと、
日本海軍の壊滅と同じぐらいインパクトが強かった事件です。
蘇我氏が危惧していたことが、
本当に起きてしまった最悪の事態です。
下手をすると唐軍が日本侵略を始めるかもしれないというぐらい
危なかったのです。
なんとかその危機を脱しましたが、
その後に色々な政治改革を急ピッチで行い、
遣唐使なども派遣し、唐に学べ!という姿勢に急転換することとなりました。
ここから学ぶことは2つあります。
1,どこか1つに依存しているとそこがコケた場合、大損をする可能性がある。
2,情報源を複数確保し、情報の精度を高めることがリスク管理に繋がる。
つねに複数の選択肢を用意して、リスクヘッジをこころがけましょう。
それが、事業の継続的な発展につながります。
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[まとめ] 1つに絞らないというリスク管理を心がける。
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